サフランの道

インドのレストランにいったら、ドアのところに「幸福のレシピ」というのがあった。愛と慈悲のサフラン(ロード)・インド・ブログです。
17.瞑想法の紹介 「私は誰か?」



ついにココに来たか、といかんじがありますが、今日はラマナ・マハリシの有名な公案(禅的に言えばですけど)、「私は誰か?」というセルフ・エンクワイアリーの手法をご紹介したいと思います。
ラマナ・マハリシは南インド、タミル・ナドウ州の出身で、アルナチャラという山のふもとにアシュラムを形成して、もうとっくの昔、1950年に死んでいる師(グル)ですが、今でも多くの精神世界の探求者たちがそこを訪れています。
まじゅの友人たちも、よくそこにいってますが、例外なく「すばらしい場所だ」と言って、帰ってきます。
私も10年ほど前に、もうちょっとで行きかけたのですが、ある事情ができて、行きませんでした。
そのうち、いつか、必ず行くだろな、とは思いますが、いつになるかは、マハリシのみぞ知る?
ま、そういうことはまた別な機会に書いてみるとして、今日はその手法についてご紹介しましたので、こちらのページからお読みください。


私は誰か? セルフ・エンクワイアリー


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16.瞑想とサット・サング
インドで瞑想やヨガなど、精神的(スピリチュアル)修養の旅をしていると、かならずそのうち出会うものに、サット・サングがあります。
「サット」はヒンズー語で「真理」を意味し、「サング」は共同で何かを分かち合うことのできる「場」を意味しています。
ブッダの時代には、サンガは現在でいう仏教寺院、共に生活し、真理を学習するための場所や建物の総称として表現されてました。
現代的にいうなら、「ブッダ瞑想コミューン」と言うことができます。
ですから、サット・サングは日本語に翻訳すると、「真理の集い」となります。
「真理の集い」という言葉はださいなと思うでしょうけど、どんなものも古くから使われてきたものはださくかんじられるのです。
そういうときは、たいてい横文字をそのまま使って、新しい雰囲気と新しい意味合いを持たせようと試みられるのです。
英語でも、"Gathering of Truth"とか、"Commune of Truth"などとはいわず、"Sat-Sang"とヒンズー語をそのまま使います。
語感的には「サットサング」というより、「サットサン」というようにも聞こえます。
「アゴンダ・ビーチで、サンダルシがサットサンをしている」とか、「アランボール・ビーチで、ニールのサットサンがある」などというように使われます。
あまり有名でない師(グル)の数人規模のサットサンもあれば、サッチャ・サイババ、シュリシュリ・ラビシャンカールなど有名な師(グル)のサットサンには数千人もの人々が集まってきます。

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瞑想におけるヨガとタントラのアプローチ

ヨガにおける基本的な瞑想の手法は、意識の焦点を一点に集中して、あちらこちらと散漫に動きまわるマインドを固定させようとするものです。
第三の目に焦点をあわせて、そこに現れる光とか色とかを見つづける技法だとか、シバやクリシュナの姿をイメージして、そこに意識を没頭させる技法とか、技法は無数にありますが、基本的には意識を一点に集中させて、三昧の境地(サマーディー)にとどまり、意識の対象だけが存在し、ほかのすべてが意識の上から消えてなくなるという状態を目指します。

これにたいして、タントラの基本的なスタンスは、あらゆるものをあるがままに受け入れるという姿勢のものです。
もともとタントラは技法という意味でも用いられてきた言葉で、ビギヤン・バイラブ・タントラという瞑想の技法集のなかには、112の瞑想技法がシバとパルバッティー(シバの奥方)の質疑応答という形の詩篇で紹介されています。
これらの技法のなかには、ヨガの瞑想として紹介されているものもありますが、もともと技法ですから、本来そこにはヨガ的とかタントラ的とかの相違はないのです。
違いはその技法へのアプローチのしかたによってでてきます。

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14.ヨガとタントラの起源
瞑想の起源は、インダス文明が起こった紀元前2500年ごろにもとめられます。
ヨガの起源も同じころに始まったとされていますが、それはヨガと瞑想を同じものとしてみているためで、実際にヨガという言葉が使われだすのは、紀元前500年ごろまで待たなければなりません。
おそらく、この2000年の間は、瞑想とともにヨガの源流となるさまざまなエクササイズや考え方などが、明確な定義をされないまま、渾然一体となっておこなわれていたのでしょう。

インダス文明を起こしたのは古代ドラヴィダ人といわれる人たちで、紀元前1500年ごろに侵入してきたアーリア人とは異なった人種です。
いわゆるヴェーダという古代経典とサンスクリット文字は、アーリア人たちがもたらしたものですが、それからヨガという定義がされるまでの1000年くらいの間には、土着のドラヴィダ人と征服者としてのアーリア人とのあいだで、人種的・文化的な融合がなされ、さまざまな形態の宗教的な祈祷や儀式などが入りまじりながら、発展していったものとみなされます。

では、タントラの起源はいつなのでしょうか?


ヨガとタントラの起源はこちらからどうぞ

瞑想とヨガ

瞑想の起源と歴史


| 瞑想(メディテーション) | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
瞑想とヨガ

昨日のブログでも書きましたが、瞑想は紀元前2500年ごろのインダス文明に、その遠い起源をもつことが指摘されています。
モヘンジョ・ダロの都市遺跡から発掘された印章のなかに、坐を組んで瞑想する人のデザインが刻まれているのが発見されたからです(昨日のブログの写真を見てください)。
ということは、もちろん、それ以前から瞑想という実習がおこなわれていたことを物語っています。

ヨガの起源を調べてみると、やはり同じインダス文明の瞑想する人の印章に、ルーツを見出しているようです。
ということは、瞑想とヨガとは同じところに起源をもつ・・・、単純に言い切ってしまえば、瞑想が始まったときにヨガが始まった、とさえ言うことができるのです。
ヨガの根本的な基盤には、瞑想が横たわっているのです。
最近世界中で流行している体操やフィットネスダンスのようなモダン・ヨガは、ダイエットや病気直しにはいいでしょうが、本来はヨガとは言えないかもしれません。
瞑想の欠如したヨガは、本来、ヨガではありえないのです。

ヨガ(Sanskrit: योग)という言葉は サンスクリット語のユジに由来し、「つなぐ」という意味です。
もともとこの言葉は馬をつなぐときに使われていた言葉なので、ヨガという言葉によって「感官を制御し、瞑想をおさめることによって、おおいなる存在とひとつになる」というヨガの目的も言葉のなかに含まれるのです。

ヨガの起源はインダス文明の瞑想する人の印章に見出されていますが、ヨガという言葉が歴史のなかで現れてくるのは、紀元前800年から500年の「古ウパニシャッド初期」に成立した「タイッティリーヤ・ウパニシャッド」においてです。
しかし、紀元前500年ごろに、ブッダはヨガの瞑想法、アナパナサティ・ヨグを実習したと記録されているので、そのことにはヨガの技法が広く修行者たちによって実習されていたことがわかります。
また紀元前350年から300年頃に成立したとされる「カタ・ウパニシャッド」には、「感官の確かな制御がヨガである」というヨガの定義が始めて出現します。
そして、2−4世紀にかけて、サーンキヤ学派の形而上学を理論的な基盤として、パタンジャリがその実践方法を「ヨガ・スートラ」としてまとめ、ここにおいてヨガの理論的な基盤が確立されたのです。

「ヨガ・スートラ」の第一章にはこう書かれています。

「ヨガとは心の寂滅である。」

この言葉だけで、第一章はおわりです。
そして、この章はヨガの本質を、簡潔に、ストレートに説いています。
もし修行者がこれを成就したなら、そのあとの章は必要でないとさえ説く師(グル)たちもいるほどです。

心の寂滅とは、禅の言葉でいえば無心です。
無心とは、瞑想のなかで心の動きが止まっている禅定(ディアーナ)の状態を、別な言葉で表現しているだけのことです。
そうすると、瞑想とヨガは深いところでは、同じコインの裏表であると言うことができます。
表がなければ裏は存在せず、また裏がなければ表も存在できません。
したがって、瞑想とヨガは、その核においては同意義語であるということができかもしれませんね。


瞑想の起源と歴史、
瞑想の目的、
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| 瞑想(メディテーション) | 19:54 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
瞑想の起源と歴史
瞑想する人(インダス式印章)

瞑想とは、けっして消えることのない喜び(至福)を自己のうちに見出だすための手段として、ヨガやアーユルヴェーダ、またその宗教的な基盤であるヒンズー教・仏教などで修練されてきた「幸福のレシピ」、のようなものです。
いつのころからこんなことがおこなわれるようになったのだろうと思って調べてみると、歴史的な資料としてもっとも古いのが、モヘンジョダロの遺跡から発見された印章のなかにあります。
この印章は、モヘンジョダロの商人たちが取引の証拠として、日本の印鑑のようなかんじで使っていたもので、いろいろな図柄があるのですが、そのなかに人が坐って瞑想しているような図柄が見つかっています。
そして、これがいまのところもっとも古い瞑想の起源をしめす資料だといわれています。

モヘンジョダロはハラッパーとともにインダス文明の中心都市であり、いまから約5000年前、紀元前3000から2500年にかけて繁栄した街です。
まだ解明されていないことがたくさんあって、いろいろと謎の多い文明ですが、あるとき高度な知識をもって忽然とあらわれ、あるときまた忽然とどこかへ消えてしまった文明だともいわれています。
それにしても、瞑想はいまから約5000年前にもうおこなわれていたわけです。

約3500年前にいまのトルキメスタンのあたりからインドに移動してきたアーリア人たちは、このようなインダス文明の果実を継承しながら、サンスクリット文字を創造し、ヒンズー文化を創りあげていったのでしょう。
いまから約2500年前(紀元前500年)にブッダは、アナパナサティというヨガの瞑想法を実習して光明を得たといわれてます。

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| 瞑想(メディテーション) | 14:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
クンダリーニ瞑想ー瞑想法の紹介ー


伝統的な瞑想法を3つ紹介してきたので、これから少し現代的な瞑想法を紹介していきましょう。
クンダリーニ瞑想といわれる瞑想法はいくつかの種類がありますが、いまここで紹介するクンダリーニ瞑想法は、和尚(ラジニーシ)によって考案された瞑想法です。
この瞑想は、前半は音楽とともに気持ちよく身体を動かすアクティブ瞑想、後半は座ったり横になったりしながら、瞬間瞬間に気づきをもたらす、いわゆる通常の静かな瞑想のふたつの側面を、ひとつの技法のなかにとりこんだ新しい種類の瞑想法です。
身体をシェイクしたり、自由に動かしたり、踊ったりすることができるので、前半の30分で身体が気持ちよく疲れはて、後半の30分の静かに気づいている静的瞑想の時間に、すっと「無心のとき」を体験することができるという組み立てをもった現代的、モダン・タイムの瞑想技法だといえるでしょう。

現代人はブッダが教えを解いていた2500年前の人々とちがって、マインドのなかがたいへんいそがしく複雑になっています。
ですから、最初からただ静かに座って瞑想するのは、たいへんむずかしいことです。瞑想の時間になって座布団の上に坐ったからといって、実際問題、身体は止まっても、頭のなかは簡単には止まらないのです。
現代に生きて、仕事をし、友人と交際し、コンピューターを使い、家族を持っているような普通の人たちには、最初から静かに瞑想することなど、ほとんど不可能に近いといっても過言ではないでしょう。
そういう意味では、この瞑想はシェイクという強烈な浄化と、ダンスという楽しい遊びをなかにふくみながら、心の表層にうごめく混沌(カオス)を一掃し、その深層にある「静かに観ている」という自己の本性を、わりと簡単に味わわせてくれます。

このクンダリーニ瞑想は、もうひとつの瞑想法である「ダイナミック瞑想」とひとつの対をなしていて、ダイナミック瞑想は早朝に、クンダリーニ瞑想は夕方にするようにいわれてますが、夕方はいがしいからできないというより、朝でも、夜でも、できる時間におこなったらよいと思います。
最初は和尚瞑想センターや瞑想会などでやり方をならい、そして自分の場所で日常的につづけてみてください。
クンダリーニ瞑想音楽のCDは、ニューエイジの店や大きな本屋などでも買えると思います。

OSHO クンダリーニ瞑想のやり方
第1ステージ(15分)
ゆったりと立ち、エネルギーが足元から上昇して来るのを感じながら、全身を振動(シェイク)させましょう。身体のあらゆる部分が、手放し状態で開放される(レット・ゴー)のを許し、振動(シェイク)そのものになります。目は閉じても、開けていてもかまいません。

「振動(シェイク)が起こるままに、まかせなさい。それをやってはいけない。静かに立ち、振動(シェイク)がやって来るのを感じなさい。そして体が少し震え出したら、それを助けるのはいいが、あなたがやってはならない。それを楽しみ、その至福を感じ、それを許し、受け取り、歓迎しなさい。でも意図してはならない。
もし震動(シェイク)を強いたら、それは一種の運動、体操のようなものになってしまう。その時、震え(シェイク)はあっても、それはただ表面的なものだ。それはあなたに深く浸透してゆかない。あなたは内側では、石や岩のように硬いままだ。あなたは操作する者、行為者のままで、身体はただそれに従っているだけだ。身体が問題ではなく、あなたが問題なのだ。
「震えなさい」(シェイク)と私が言う時、あなたの固さ、岩のような存在がまさにその根底から震え(シェイク)、それが流動体に、液体になり、溶けて流れるようになるべきだと言っている。そして、岩のような存在が流動体になる時、あなたの身体はそれに従うだろう。その時、あなたが震わせる(シェイク)必要はなく、震動(シェイク)だけがある。誰もそれをしてはいない。震え(シェイク)はただ起こっている。それをしている者はいない。」 OSHO

第2ステージ(15分)
感じるままに踊りましょう。身体全体を、それが動きたいように動かしましょう。ここでも、目は閉じても開いたままでもかまいません。

第3ステージ(15分)
座るか立ったままで、目を閉じて静止します。あなたの内なるところ、そして、外がわでおこっていること、すべてを黙って目撃し、静かに観照したままでいます。

第4ステージ(15分)
目を閉じたまま横たわり、静止しています。静かな観照だけがあるでしょう。



瞑想とはなにか?

トラタック瞑想法




| 瞑想(メディテーション) | 14:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
10. トラタック(トラタカ)瞑想 −瞑想法の紹介−


トラタック瞑想は、サンスクリット語のトラタカ(Trataka)、「凝視する」という言葉に由来しています。定められた一点を、まばたきせずに凝視しつづけるという技法です。
まばたきせずにある一点を凝視していると、目が熱くなり、痛くかんじて、涙がでてきます。
涙がでているのを、そのまま放っておいて凝視しつづけると、通常の「見る」という空間から、「観照する}という別次元の空間が浮かびあがってきて、別種類の見るという行為が起こっていることが体験できます。

これはパタンジャリの昔から、ヨガを修行する人(ヨギ)たちによって実習されてきた伝統的なヨガの瞑想法です。
現実面では目の集中力をたかめ、霊性においては「第三の目」と呼ばれるアジナ・チャクラを活性化させます。
一点を凝視するという強烈な技法で集中力をやしない、表面的な次元を貫きとおして、その奥の本質と出会うために創造され、発達してきた瞑想法であるといえます。

トラタック瞑想にはふたつの側面があります。
ひとつは、外側の対象を「見る」という行為によって貫通することです。
それは「見る」という矢を、対象にむかって射るようなものです。
ちがうところは、実際の矢は射れば的にあたって、それでめでたしめでたしということで終わりますが、「見る」という矢は、射る本人から的にあたるまでの距離を、継続的に、とぎれることなく、見続けなければならないというところです。
それは常にオンゴーイングのプロセスになります。

その対象は、凝視できるものなら基本的にはなんでもよく、通常、紙に黒い点を描いて壁に貼ったり、オームなどのシンボルであったり、シバやブッダなどの神像であったりもします。
ローソクの炎を見つめる方法も広く取り入れられ、多くの人々に実習されていますし、また、夕日を見つめたり、鏡にうつる自分自身の顔や坐像を見つめる方法は、より強烈なものだとも言われています。



つづきはこちらからお読みください。




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| 瞑想(メディテーション) | 17:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
ワーリング瞑想 −瞑想法の紹介−

どの宗教のなかにも、ちょっとメイン・ストリームからはずれた鬼っ子的な宗派があります。
仏教には禅という特異な流れがあり、ユダヤ教にはハシディズムという変わり者たちがおり、それぞれの主流派たちからすれば頭の痛い問題児たちのように扱われてきました。
しかし、現代になって、このような「真摯に自己の本質を追究する」技法をもった鬼っ子たちが、むしろ見直されているように思います。
イスラム教にもこのような鬼っ子集団がいて、彼らはスーフィー(Sufi)と呼ばれました。
アポロ11号のアームストロング船長が、月世界での神秘体験をえて、その後スーフィーに改宗したので一時有名になりましたが、スーフィーという宗派はイスラム教の予言者モハメッドが生きていたころからすでに存在し、イスラム教のなかに取り込まれながらも独自の手法と霊的体験を、師と弟子という東洋的な伝達法によって伝えてきた人たちです。
「壁に向かって語れ。そうすれば、扉が開くであろう」

これ以降はこちらからどうぞ




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8.瞑想の体験

瞑想の体験がある、と誰かが言うときには、ふたつの意味合いが考えられます。
ひとつは、瞑想した体験をもっている、という場合。
瞑想したことがある人は、ある意味では、すでにたいへん恵まれています。
なぜなら、瞑想という概念とその実習は、人類の歴史のなかでも、まだたいへん新しいもので、おそらく一万年以上はたっていないでしょう。
そして、ざっと見渡してみても、人間以外に瞑想する動物というのはおらず、サルや鯨が坐禅をくんでいる、などという姿は見たこともは聞いたことがありません。

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